大津 誠 (七段)
合気道昭和道場
名古屋
2025年8月27日
内容
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序言
合気道は昭和初期に植芝盛平先生(以降「開祖」と呼ぶ)により創始された日本のユニークな近代武道である。合気道のユニークさは、それが単なる物理的な戦闘システムとしての武道ではなく、和合、愛、平和を求める強固な精神的基盤に基づく武道であるという点にある。合気道の目的は敵を攻撃して倒すことではなく、攻撃されたときに自分自身を守り、攻撃者を傷つけずに「無力化」することである。それにより、暴力は間違っており無益であると相手を説得する「和合の武道」である。
巻末の参考文献からも明らかなとおり、合気道についての開祖自身による著作は存在しない。すべての著作は開祖が戦後二十数年にわたり様々な機会に行った口述の筆記である語録に基づいている。開祖自身はこれらの口述の内容を体系的に整理して「分かりやすく」提示することはなかった。したがって、開祖の考えを正しく理解するためには、ひらめき、連想、反復からなる開祖の独特の思考プロセスに従って理解することが必要であり、これは決して容易なことではではない。
合気道に関する開祖の考えの中心にあるのは、2000年の歴史を持つ日本固有の宗教である神道への強い信仰である。開祖は特に、明治政府によるいわゆる「国家神道」に対抗して明治中期に創始された神道系の新宗教である「大本教」、およびその戦後の分派の一つである「白光真宏会」の解釈する「古神道」に強い影響を受けている。事実、さまざまな著者によって筆記され引用された口述の中で、開祖は神道の用語や神話に頻繁に言及している。したがって、開祖の合気道の精神的基盤を理解するためには、まず神道と大本教について概観する必要がある。
神道
神道(「かんながらのみち」とも呼ばれる)は、日本に古くから存在していたアニミズムやシャーマニズム的な世界観を反映した日本固有の民俗宗教である。一般に、現在の神道に近い古神道は、紀元前300年頃に生まれたと考えられている。 キリスト教やイスラム教とは異なり、神道には創始者がおらず、聖書やコーランのような聖典も存在しない。 それは、土着の宗教的信念、慣行、そして後世に作成されたさまざまな神話で構成されている。しかし、日本には5世紀に中国から漢字が導入されるまでは土着の文字が存在しなかったため、古神道は元の形では直接文書化されていない。
古代日本では、風、雨、山、木、川、豊穣、そして死後の人間、特に祖先など、生命にとって重要なすべてのものには超自然的な実態すなわち「霊」が生息していると信じられていた。自然の創造物だけでなく言葉にもまた霊があると信じられていた。 これらの霊は人間の制御を超えた不思議な力があるものとして崇拝されていた。その後、これらの霊は「神 (かみ)」と呼ばれるようになった。
神の言葉は、一般の人々に伝えられる必要があった。霊による憑依(ひょうい)は古代日本で広く行われていた。巫女(みこ)」と呼ばれる特定の女性がトランス状態になり、占いを行い、神とコミュニケーションを取る。したがって、巫女は女性のシャーマンである。歴史を通じて、女性だけでなく男性も同じ役割を果たすことがあった。開祖自身も生涯で何度かトランス状態や、それに近い状態になった経験があり、神の意志を知ることとなった。
古代神道の基本的な性質は多神教であり、神道には多くの神々がいる。実際、「八百万の神(やおよろずのかみ)」という表現がある。それぞれの神は特定の機能を果たすと考えられていた。すべての機能の中で最も重要なのは「むすび」と呼ばれ、結合することによって創造し、育て、完成するプロセスを意味する。日本神話に登場する多くの神々は、この機能と関連付けられている。
むすびの過程では、さまざまな要素を組み合わせて調和させる必要がある。宇宙のすべてのものは、このようにして神によって創造され、育成されている。そのため万物は神々しく美しい。したがって、自然のどの部分を傷つけることも調和を乱すため悪いことと見なされている。このように、神道は人間と自然界との調和のとれた関係を育み、維持することを目指している。調和(和合)は開祖の合気道の重要な概念である。その他、神道の主な特徴は以下の通りである。
先ず、神道は楽観的な信仰であり、人類は本来的に神聖な性質を持つと考えられている。「原罪」 神道には存在しない。しかし、実際には、この神聖な性質は人間に常に現れるわけではなく、彼らの心はしばしば悪霊によって汚染されることがあり、その状態は「穢れ(けがれ)」と呼ばれている。穢れは「清め」、「禊(みそぎ)」、「祓い(はらい)」と呼ばれる浄化の儀式によって取り除くことができる。最初の2つは自分自身で行うが、最後の1つは、浄化される個人または対象に代わって「神主」と呼ばれる神職によって行われる。開祖にとって、合気道は禊の一種であった。
次に、キリスト教や仏教とは異なり、神道には天国と地獄の二分法は存在しない。それに代わって、宇宙は3つの部分に分かれていると考えられている。それらは神々が住む天国にある「高天原(たかまがはら)」、人間の住む地上にある「芦原中津国(あしはらなかつくに)」、そして死者の汚れた霊が宿る地下にある「四方の国(よものくに)」である。適切な浄化の儀式の後、これらの霊は「氏神」と呼ばれる家族の守護神または氏族の守護神に加わる。これらの先祖代々の神は、彼らの子孫が適切な儀式を行い続ける限り守護神として彼らを保護する。
最後に、神道の神々は日本の創造神話と密接に関連している。西暦712年に出版された日本の歴史に関する最初の公式文書である「古事記」によると、宇宙は「雨土(あめつち)」、つまり天と土の分離から始まった。その後、高天原には「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」をはじめとする3人の神が現れた。この初代の神の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、現在まで続く神話上の祖先である。以下では、19世紀末までの神道の発展を簡単に概観する。
5世紀に漢字が導入されると、6世紀までに儒教、道教、仏教などさまざまな外国の思想や宗教が導入された。特に重要だったのは仏教であった。神道の多神教的な性質、つまり他の宗教に非常に寛容であることもあって、二つの宗教は共存し、互いに補完し合うようになった。
神道と仏教の宗教的共存は、次第に融合へと移行し、神道の神々は仏教の宇宙論の一部として見られるようになった。その結果、神道は機能的に仏教と切り離せないものとなり、「神仏習合」と呼ばれるプロセスが進行した。やがて神仏習合は皇室に採用され、その伝統は1868年の明治維新まで1000年以上続いた。この長い期間における「混合神道」の発展については、本稿では一切触れない。また以下では、神仏習合以前の神道を「古神道」と呼ぶことがあるが、煩雑さを避けるため特段の理由がない限り、単に「神道」と呼ぶ。
江戸時代の中期18世紀末にかけて、「国」が本居宣長によって始められ、平田篤種に引き継がれた。1822年に出版された宣長の『古事記伝』は、近世における古事記研究の優れた実証研究として高く評価されている。国学の学者たちは、神道の規範を仏教や儒教による解釈に求めるのではなく、712年に出版された古事記などの日本の古典を研究することにより、われわれの先祖の信仰や生活態度に求めるべきであると主張した。 実際、今日私たちが使っている「神道」という言葉は、国学者によって再発見されたものである。それ以前は「かんながらのみち」など様々な呼び名で呼ばれていた。
国学派が強調した重要な点は、天照大御神の子孫である皇統(天皇の血筋を引く人)への敬意であった。彼らの神道に対するナショナリズム的な見方は、中国由来の朱子学の思想により国家を統治する徳川幕府の支配に反対する政治運動を刺激するのに役立ち、1868年の明治維新につながった。
明治政府の下で、神道を仏教から分離し解放する努力がなされた。神道は後に「国家神道」と呼ばれ日本の事実上の国教となったが、明治政府により「宗教ではない」と位置付けられた。他方、明治憲法で信教の自由が認められ、キリスト教はじめすべての宗教の存在が認められた。
国家神道では、太陽の女神である天照大御神を頂点とする天皇の血統に関連する特定の神々のみが公式に認められ祀られた。これら神々を祀る神社は内務省の管理下に置かれ、政府の資金提供を受けた。それらの神社の神職は国家の役人となり、生き神として崇めることが奨励された。
19世紀後半のもう一つの展開は、明治維新による社会的混乱と人々の不安から、新しい宗教運動が出現したことである。新しい宗教運動は、主に創設者の個々の宗教的経験に基づいており、病気の治癒や精神的な救いを目的としていた。これらの新しい宗教運動には、神道の種々の要素が組み込まれていた。それらの新しい神道のグループの多くは、国家神道の主要な神である天照大御神とは異なる神を祀っていた。彼らは1882年の政府の命令によって国家神道から分離され、「教派神道」と呼ばれた。
神道は政府によって政治化されたが、知的レベルでは2つの重要な発展があった。一つは、江戸時代後期に始まり明治期に大石凝 真素美(おおいしごり ますみ)によって総合された「言霊学」である。古文書や「太占(ふとまに)」と呼ばれる慣習等から得られた古事記以前の情報をもとに、言霊の研究者たちは、言葉の霊と宇宙の創造との関係を立証しようと試みた。古代の神道では、霊は言葉に存在すると考えられていたが、彼らは霊が音や文字に存在すると主張した。
もう一つは、前述の国学者・平田から発祥した霊学で、本田親徳が「本田霊学」という名前で体系化したものである。本田は「鎮魂帰神(ちんこんきしん)」と呼ばれる神々との接触方法を開発したが、これについては後述する。
彼はまた、宇宙の創造過程についての古事記の記述の空白を埋めるために、神道の独自の宇宙論を作成した。彼の宇宙論は「一霊四魂三元八力(いちれいしこんさんげんはちりき)」という言葉に要約されている。それは、前述した最初の神である天之御中主神が「直霊」という一つの霊と、和魂、荒魂、幸魂、奇魂という4つの魂から成る宇宙の精神を創造し、その後、地球を支配する神「国之常立神(くにのとこたちのかみ)」が3つの物質(剛体、柔体、流体)と8つのエネルギー源(動・静、引・弛、凝・解、分・合)を生み出したというものである。
この2つの学派は、後に出口王仁三郎によって大本教に統合された。以下では、明治時代に生まれた様々な新しい宗教団体の中で大本教のみを紹介するのが、それは大本教が合気道の精神的基盤を探求する開祖に強い影響を与えたからである。
大本教とその戦後の変遷
大本教は1892年になおによって設立された。その年の2月のある夜、彼女は「艮の金神(うしとらのこんじん)」と名乗る神に取り憑かれた。艮の金神は、自身が3000年間にわたり、この世から引退を余儀なくされていた間に、邪神によって汚染された世界を浄化し再建するために戻ってきたと宣言した。
艮の金神はまたなおに、彼が世界を再建し、正義と兄弟愛の社会を築くのを助けるために「大本(おおもと)」宗教運動を始めるようにと告げた。なおはその言葉を信じ、彼に従うことにした。憑依(ひょうい)と神の啓示はほぼ毎日発生し、彼女は文盲であったにもかかわらず、彼の宣言、予言、指示を「お筆先(おふでさき)」と呼ばれる自動筆記で書き写した。彼女の自動筆記の奇跡や奇妙な予言の的中は周囲の人々に大きな感銘を与え、人々は彼女の言葉をより真剣に受け止めるようになり、徐々にその教義のもとに結集した。
1898年、艮の金神の予言通り、本田霊学の「鎮魂」や「帰神」などの古神道の理論と実践の訓練を受けた上田喜三郎がなおを訪れた。上田はその後まもなくなおの末娘と結婚し、出口王仁三郎と改名した。このようにして、王仁三郎はなおの予言と指示を、主に古事記に記録されている神道の神話に従って解釈することにより、大本教の教義を構築した。例えば、彼は『艮の金神』を古事記の「国之常立神(くにのとこたちのかみ)」であると確定した。
しかし、王仁三郎は天地創造についての記述を欠く古事記に完全には満足していなかった。そのため、彼は81巻の『霊界物語』を書き、古事記の補足と修正を試みた。その中で彼は、大石凝の言霊研究の理論と本田の「一霊四魂三元八力」の理論に従って宇宙の起源を非常に詳細に記述した。
『霊界物語』によると、当初は大きな混沌や虚空があった。すると、この虚空に小さな点(・)が生じ、空気を放出し始めた。実はこの点(・)は、王仁三郎が大天主太神 (おおもとすめおおみかみ)と呼ぶ宇宙の最高神であり、この点(・)の周りを空気が動き始めて渦を巻き始めた。
すると、渦巻きは霊を持つ音(「言霊」という)を発し始めた。最初の言霊の音は「ス」であった。「ス」言霊の拡大に伴い、「ウ」言霊が誕生した。「ウ」言霊から、「ア」と「オ」の二つの言霊が誕生した。前者から「霊」が生まれ、後者から「体」が生まれた。この二つの相互作用により、「力 (エネルギー)」が誕生した。精神、物質、エネルギーによって、宇宙が完成した。「ス」と「ウ」からは、合計75の音、つまり言霊が現れた。王仁三郎の宇宙の構成とその中のすべての要素についての見方は、前述の本田によって開発された「一霊四魂三元八力」の理論に従っていることは明らかである。
前述したとおり、人間にとっては、一霊は、荒魂(勇)、和魂(親)、幸魂(愛)、奇魂(知)の4つの魂から成り立っている。三元は、剛体、柔体、流体の3つの物質 (体または肉)で構成されている。八力は、動・静、引・弛、凝・解、分・合という4組の対立する力で構成されている。
霊界物語にみられる大本教の基本的な教えは、人間はまず自分の心を浄化し、次に世界を浄化・再構築しなければならないということである。そのための方法は、文字通り「霊に従属する肉体」を意味する「霊主体従」の原則に従うこと、つまり物質主義的な見方から精神的な見方に転換することである。 そうすることにより、世俗的な欲望は神聖な愛に変わる。利己主義は犠牲の精神に取って代わられる。最終的には、私たちは「弥勒の世(みろくのよ)」、すなわち同胞愛の新時代に入ることができる。
王仁三郎の宇宙論は、最初の神は単に宇宙の始まりに存在したとする神道よりも、神が宇宙の創造者であるとするキリスト教の影響を受けていると指摘されている。彼はまた、神の行為を説明する際に、神道には存在しない用語である「愛」という言葉を使用する。明らかに、彼はキリスト教からその言葉を借りたように思われる。事実、彼は地元の綾部の教会で数年間キリスト教を学んだという記録がある。「霊界物語」はまた、対極性と二元性の原理を提唱する中国の陰陽理論の影響を示している。さらには、仏教の影響も明らかである。例えば、弥勒は仏教の神である。
大本教は、宇宙には前述した「大天主太神」と総称される最高神が存在し、キリスト教、イスラム教、仏教など、さまざまな宗教の神々はこの一つの源泉から来ていると考える。この点で、大本教は「包括的な一神教」と見なされている。「国之常立神」はこの最高神の一柱であり、その目的は邪悪な世界を浄化し、再構築することである。人間は神の代理人であるから、地球上のすべての人間と自然界のすべてのものが平和に生きるために神を助けることが全人類の使命であるとする。そのために、出口は国際主義を推進し、異教徒間(協調)運動やエスペラント運動に非常に積極的であった。
大本教は、以下の二つの理由により政府からの攻撃を受けるようになった。第一に、国家神道では、皇室の祖神とされる天照大神が当然のことながら最も重要な神であるのに対し、大本教では、国之常立神が天照大神よりも宇宙の最高神として崇められている。第二に、世界平和を説く出口は、ますます軍国主義化する日本帝国政府の政策に公然と反対したためである。
その結果、1935年に大本教の建物はすべて当局によって破壊され、出口を含む約1,000人の大本教の指導者が皇室に対する不敬と社会不安を引き起こした罪で逮捕され投獄された。
1945年の第二次世界大戦の終結により、日本は6年間、アメリカ主導の連合軍の占領下に置かれた。連合軍総司令部(GHQ) の主要な目的は、この間に日本の軍国主義を根絶し、日本を平和を愛する民主主義国家へと変貌させることであった。
そのために、GHQは1945年占領開始早々に「神道指令」を発し、彼らが軍国主義の精神的支柱とみなした国家神道の廃止を命じた。具体的には、特定の神社に対する内務省の統治と国家財政からの支出の禁止、および公教育の場における国家神道、特に建国神話の教育の禁止である。この指令に沿う形で、翌1946年に昭和天皇は自分は 国家神道で定義される「現人神(あらひとがみ)」すなわち人間の形をした神ではないと宣言した。また同年、GHQによって起草された新憲法では、宗教は国家から分離され、完全な形での信教の自由が認められた。
1947年、大本教に対するすべての告発は取り下げられた。しかし、1942年にすでに仮釈放されていた王仁三郎は、宗教を離れて陶芸や絵を描くなど芸術に没頭し、1948年に亡くなったこともあり、大本教の再建は遅々として進まなかった。幾度かの試みを経て、1952年に大本教は元の名前で再建された。
大本教の再建が遅れる中、第二次世界大戦後に新たな宗教団体「白光真宏会」が出現し、開祖に大きな精神的影響を与えた。白光真宏会は1951年に五井正久によって設立された。大本教の分派の指導者たちの影響のもと、五井は数年間精神修養に専念し、修養の終わりに内なる神聖性との一体化を達成した。 彼は神から「地上に平和が行き渡りますように」という特別なメッセージを受け取った。
白光真宏会の教えは、次のように要約することができる。まず、人間は五井が「守護神」と呼ぶ普遍的な神に由来する。この守護神の存在を実感するという霊的な覚醒を達成した人々は、「守護霊」を内面化することとなる。守護神や守護霊に感謝の気持ちを込めて祈ることで、心の平安と真の幸福を得ることができる。
第二に、白光真宏会は、平和の祈りによって神性、調和、真の自己を発展させ、表現することを会員に奨励し、彼らの精神的発展を通じて世界平和が達成されることを強調する。平和の祈りは「地球に平和が行き渡りますように・・・」と始まる。後述するように、世界平和を成し遂げるという考えは、開祖の合気道に対する考え方に大きな影響を与え、それが合気道の「国際化」、すなわち海外への進出を促進した。
開祖による合気道の精神的基盤の探求
武田惣角の大東流柔術を含む様々な武道についての開祖の幅広い経験はよく知られている。開祖はそれらからさまざまな技法を学んだが、儒教や禅仏教に基づく精神的基盤を受け継ぐことはなかった。
1920年、開祖は京都近郊の綾部に、大本教のリーダーである出口王仁三郎を訪れた。開祖は当時36歳で、武田惣角の弟子として大東流柔術を修行していた。しかし、開祖は大東流に完全には満足しておらず、大東流柔術を超えた真の武道を探究していた。
出口と彼の教えに感銘を受けた開祖は、すぐに出口の弟子になった。家族とともに綾部に移り住み、出口の下で勉学を積んだ。また、出口の励ましもあり、大東流を基盤とする武道を指導する「植芝塾」を始めた。その過程で、開祖は出口から「合気」の新しい意味を学び、合気を中心に新しい武道を開発したと一般に信じられている。そのため、開祖は自分の武道を「合気柔術」と呼ぶようになった。
「合気」は、武道の一部の流派、特に柔術の流派の間で使用されていた用語である。それは大まかに言って、「心を合わせることにより単に物理的な力を超えたより多くのエネルギーを生み出す」という意味である。しかし、その正確な内容は各流派の「秘伝」として扱われ、一般に公開されず、したがって広く知られることはなかった。合気についての出口の理解は、その精神的な起源を古代神道に求めたという点で、はるかに深かったように思われる。
出口なおや王仁三郎のような他の多くの宗教家と同様に、開祖自身も強いシャーマニズムの能力(霊感)を持つ人物であった。開祖は1925年のある日、自宅の庭を歩いていると、突然、天地が轟音を立て、地から黄金の空気が吹き出し、体が金色になったように感じた。すると、体も心も軽くなり、安らぎを取り戻した。鳥のささやきの意味もわかるようになった。その瞬間、開祖は悟りを開いた。この宇宙を創造した神の心は「愛」、すなわち「万物愛護の精神」である、と。
そして真の武道の起源はこの神の愛であり、真の武道の目的はこの神の愛の力を自身の心身のうちで鍛錬することである、と。後に開祖が「黄金体験」と呼んだこの神秘的な体験が開祖の大本教の一元の神への信仰を強めると同時に、この宗教的覚醒が後に「合気道」と命名された真の武道の精神的基盤の形成に大きく寄与したといえよう。
開祖は大本教に完全に帰依し、合気柔術を人々の和合を達成するための手段として考えるようになった。したがって、植芝塾では当初は主として大本教の信者を対象に合気柔術の指導が行われたが、徐々に、合気柔術自体への興味から信者以外の入門者が増大した。特に、演武における開祖の「神業」に感銘を受けた海軍、陸軍の将校や、警察幹部の間で強い支持を得ることとなった。その中でも海軍大将・竹下勇の強い後援を受けて、開祖は1927年に東京に移り住み、合気柔術を全国的に広めることなった。
開祖の合気柔術は瞬く間に全国的な人気を博した。1931年には新道場が完成し、「皇武館」と名付けられた。有力な華族、軍・警察幹部、実業家が入門し、特に、陸海軍や警察の教育機関では組織を挙げて合気柔術の習得を奨励した。前述した1935年の大本教の指導者の大量逮捕の際に開祖は難を免れたが、これは開祖の高弟である警察の有力幹部の特別の取り計らいによるものであった。
軍国主義の下、武道を奨励する政府の支援により合気柔術 (1940年頃に「合気武道」と改称) は大いに繁栄した。しかし、開祖は政府認定の「財団法人皇武会」として軍部に活動を広げる合気武道が果たして自身の探究する真の武道かどうか疑問に思っていた。
大本教の解散により、開祖の組織としての大本教との関係は1935年に終了したが、合気道の精神を神道に基づいて構築するための開祖の努力は続いた。この過程で、開祖は大本教の教義に依存しつつも、大本教以外の神道の学者や実践者とも交流を深めた。
1940年、古神道家である中西光雲、清雲夫妻の助けを借りて、開祖は「神降し」の儀式を行った。その結果、合気道に因縁を持つ43の守護神が降臨した。彼らは「猿田彦の大神」によって導かれ、そして最後に「速武産の大神(はやたけむすのおおかみ)」が降臨し、自分が植芝家の血に入り、合気道の守護神となったと宣言した。
速武産の大神は開祖に、世界を浄化することを使命とする女神「伊豆能売(いずのめ)」になるように命じた。このようにして、猿田彦は速武産を通じて、開祖に「武産合気(たけむすあいき)」、すなわち合気道を通じて悪霊を浄化し世界に平和をもたらす、という使命を与えた。
しかし、開祖はその任務が自身の能力を超えていると考えたため、この啓示に従わなかった。すると、開祖は重病になり、回復するのに約1年を要した。開祖は病気の間に、合気道の使命は確かに世界に最高神の大きな愛を広めることであると悟り、その使命を受け入れることを決心した。
1942年、第二次大戦開戦の1年後、皇武会が大日本武徳会に統合された際、開祖はそれまで使用していた「合気武道」の名称を「合気道」に変更した。これを機に、開祖は本部道場の経営と合気道の指導を子息の吉祥丸先生に託し、また一切の公職を辞し、茨城県岩間に移り住んだ。かねてから理想としていた「武農一如」の生活を送りつつ、真の武道を完成するという開祖本来の目標を追求するための決断であったと思われる。
また、1942年には、以前と同じ中西夫妻の助けを借りて、開祖は再度神降しの儀式を行った。多くの神々が現れ、合気の誕生を祝った。そして、猿田彦は再び速武産を通じて「世界を浄化するためには、第二次大戦を止めなければならない。そのためには、合気神社と武産合気の道場を建てるのが開祖の責任である。」という啓示を伝えた。 この啓示を受けて、開祖は1943年に岩間に合気神社を建て、また1945年の春には道場を建てた。道場が完成してから数ヶ月後に第二次大戦は終結した。
開祖は戦後も岩間に住み、武農一如の生活を続けた。開祖はまた、神道の熱烈な信者として、毎日さまざまな禊の慣行を実践した。これらの慣行の合間に、新しく建てられた道場で合気道を教えた。次第に、開祖は武道家だけでなく、宗教家にもなっていった。
開祖は1957年に白光真宏会の創設者である五井昌久と出会った。その頃には、開祖の大本教に基づく合気道に対する考えは十分に確立されていた。出口王仁三郎の場合、開祖が出口を訪ねて彼の教義について学ぼうとしたのとは異なり、今回はまず五井が開祖の監修による著書『合気道』を読んで合気道と開祖に興味を持つようになった。したがって、彼らの関係は師匠 (五井)と弟子 (開祖) の関係ではなく、二人はお互いを相互理解と尊敬によって結ばれた対等な関係にあると見なしていた。開祖の口伝を筆記した『武産合気』が白光真宏会から出版されたことはこれを証明している。
また白光真宏会は大本教の分派であるため、五井も開祖と同様に普遍的な神「天之御中主の神 (あめのみなかぬしのかみ)」を信じており、二人に相互の絆が生まれるのは自然であった。さらに、愛と和合を目的とする開祖の武道は、五井にとって非常に魅力的であった一方、開祖は、五井が説く「世界平和」を、「愛」と「和合」に加えて追求すべき合気道のもう一つの具体的な目標として設定することができた。
これまで、開祖による合気道の精神的基盤の探求プロセスを概観してきた。要約すると、開祖は大本教の学習を通じて武道家であると同時に宗教家にもなったといえる。宗教家としての開祖の目標は、汚染された日本と世界を「禊 (みそぐ)」こと、すなわち浄化することであった。戦後は「世界平和」を実現することがもう一つの具体的な目標として加えられた。武道家としての開祖は、合気道を実践することによって日本と世界を浄化することを使命としていた。開祖はよく、世界を浄化するために単に説教するだけでは不十分であり、それを実践することの方がより重要であるという趣旨のことを述べている。
武産合気(たけむすあいき): 開祖の神道にもとづく合気道
開祖による合気道の精神的基盤の探求プロセスは「武産合気」に結実したといえよう。他のすべての概念同様、開祖は「武産合気」について体系的説明はしていないが、1925年の「黄金体験」と1940年の「神降し」による啓示がその中核となっているように思われる。
前述したとおり、1940年の神降しの結果、速武産の大神が降臨し、開祖に合気道を通じて世界を浄化することを使命とするよう命じ、さらに自分が合気道の守護神になったと宣言した。開祖はこの神示が宇宙の最高神である一元の大神(スの大神)から発せられており、合気道の使命は世界に一元の大神の大きな愛を広めることであると悟った。一元の大神の心が愛であることについては、1925年の黄金体験の啓示からすでに確信していた。
以上から、「武産合気」の基本的な特徴は、「合気道は一元の大神の愛を広めるための手段である」という宗教的確信である。言い換えれば、合気道の目的は一元の大神の愛を広めることである。第二の特徴は、上記の愛の心をもって合気道の原理の研鑽を積むことにより、「神変自在、千変万化」の技を生み出すことができる、という確信である。「武産(たけむす)」とは「無限の技を生み出す」の意と解されよう。
それでは、開祖の考える「合気道」の原理とは何か、どのように構成されているのであろうか。開祖は合気道の起源を一元の大神に求めるため、開祖が「布斗麻邇(ふとまに)の古事記」と呼ぶ古事記の記述以前の宇宙の起源についての大本教の教義に沿って合気道を解釈しようと試みている。大本教自体が、大石凝の言霊研究と本田親徳の「一霊四魂三元八力」の理論に大きく依存しているため、開祖も言霊学と一霊四魂三元八力理論に強く影響を受けている。
これらの「理論」や古事記の神話による合気道の諸側面についての説明は、その強い宗教性により極めて難解である。開祖自身、合気道は単に頭で理解するものではなく、全身で「感得」「体得」するものであると繰り返し述べている。それにもかかわらず、開祖は上記の諸理論や神話を部分的に取り入れつつ、合気道についての独自の概念枠組みを作り出した。
開祖は合気道についての自身の考えを『合気神髄』の第7章 (事実上の最終章)で以下のように要約している。すなわち、「世界を浄化するという合気道の使命を達成するためには、心と体を統一し、その上で自分の心、気、体を宇宙の働きと調和させなければならない」と。ここから合気道は「心」「気」「体」の3つの要素で構成されており、合気道を「正しく」習得するためには心、気、体を宇宙の働きと調和させる必要があると考えることができる。
「心技体」は柔道・相撲などでよく使われる表現であるが、これとは異なり「心気体」である。「心」は合気道の精神的な側面、「体」は物理的な側面を表し、「気」は2つを結び付けてエネルギーを生み出す。技は「心気体」の融合の結果として生まれるとする。なお、開祖の言う「心気体」は、合気道自体の「心気体」よりはむしろ、合気道を実践する我々の「心気体」を意味していると解釈されるべきであろう。
「心」「気」「体」はそれぞれ、大本教の「霊(精神)」「力(エネルギー」」「体(肉体)」に対応している。また、大本教では霊が体に先行するため、開祖は心が体よりも上位にあると考えている。開祖の言葉では、「魂(こん)」を上(表)にして、「魄(はく)」を下(裏)にしなければならない、とする。これは体に対する精神の優位性を強調するという合気道についての見方を表している。
以下では、合気道を構成する心、気、体のそれぞれについて詳しく説明する。ここで注意したいのは、開祖は「心」については神の心に由来する「愛」であると特定している一方、「気」「体」のいずれについても、状況や文脈によって異なる複数の意味で使用しているということである。「気」は気持ち、心情、意志、空気、呼吸、呼吸力、エネルギーなどである。また、「体」は身体自体とともに、身体の構え(体勢)、身体の動き(体さばき)をも意味する。
まず合気道の「心」について、開祖はその源泉を以下のように考える。主として先に述べた出口の宇宙創造過程説を踏襲して、開祖は自身が「スの大神」または「主の大神」と呼ぶ一元の大神(宇宙の至高神)が、それに続く多くの神々の助けを借りて宇宙の創造を始めたと信じる。したがって、宇宙の「心」は、宇宙を創造した一元の大神の心である。そして1925年の黄金体験から、開祖は一元の大神の心は「愛」であると固く信じる。これについては、出口を通じて大本教にもたらされたキリスト教の影響があるのではないかと思われる。実際、開祖が「使命 (mission)」などの用語を頻繁に使用することに、キリスト教の影響が感じられる。
開祖はまた、「包括的な一神教」である大本教の教義に従い、宇宙には「大天主太神(おおもとすめおおみかみ)」と総称される最高神(開祖はこれを「一元の大神」と呼ぶ)が存在し、キリスト教、イスラム教、仏教など、さまざまな宗教の神々はこの一つの源泉から来ていると考える。したがって、開祖は一元の大神の心である「愛」は日本固有の神道に限らず、キリスト教はじめすべての宗教に共通であると考える。私見によれば、「それぞれの神の愛を実現する」ことを目的とする合気道が国際的に受け入れられている最大の理由はここにあると思われる。
開祖の「愛」という概念は、英語の ”love”(愛情)よりも ”benevolence”(慈愛)に近いと思われる。事実、開祖は愛を説明する際に、「万有愛護」という表現を使用したり、親が子供を産み育てるように、「創造し育成する」と言い換えることがよくある。
開祖は、一元の大神の愛の心を自分の心とするためには、正しい「念」を持たなければならないとする。そのためには、自分の心が悪霊に汚染されたり支配されたりしていないかどうかを調べ、もしそうであれば先ず自分自身を浄化しなければならないと繰り返し述べている。すなわち、自分自身の禊が必要なのである。開祖の表現では、「自分に勝つ」ことが必要なのである。「自我」や「自己欲望」は邪念である。合気道において相手に「勝ちたい」という願望もまた邪念である。「自分に勝つ」とはこれらの邪念に打ち勝つことである。
神道では(一部仏教でも)「水垢離(みずごり)」などの身体的な行為により分自身を禊ことができると考えられている。事実、開祖自身もよくこの水垢離を行っていたと伝えられている。以上のようにして我々は自分の心を神の愛の心と一体化することができる。
それでは、合気道では実践的な武道としてどのように相手を愛することができるのであろうか。護身術としての合気道を考えてみよう。例えば、街頭で暴力に直面するという極端な状況で、私たちはどのようにして暴漢を「生み育てる」ことができるのであろうか。開祖によると、「生み」とは、暴漢を「殺さない」あるいは「傷つけない」で、無傷で生きさせるという意味である。そして、「育てる」とは、「善に導く(善導する)」ということである。つまり、暴力は無益で悪いことだと気づかせることによって、暴漢が自身の行動を正すことができるという意味である。このようにして、暴漢を「禊 (みそ)ぐ」、すなわち浄化することができる。このプロセスが「愛」のプロセスである。
その根底にある哲学は、人間は一元の大神の創造物であるため、たとえ敵であっても、人間を滅ぼすこと、傷つけることは神の意志に反することであり、神道における最悪の罪である「穢れ」の行為であるというものである。反対に、敵の心を修復すること、すなわち「禊ぎ(浄化の行為)」こそが、神が望むことである。このように、合気道では禊は他人に対して行われるときの愛の行為となる。
開祖の「愛」についての見解は、合気会の『合気道倫理憲章 (2015年1月5日)』 に次のように盛り込まれている。「3.合気道の精神: 合気とは「愛」であり、あらゆるものを愛護することを自己の使命として完遂するのが真の武の道である。合気とは自己に打克ち、敵の戦う心をなくす、いや、敵そのものをなくしてしまう絶対的な自己完成への道なのである。 (植芝盛平翁『合気道』より抜粋)」
第2に「気」について、開祖は、本田の一霊四魂三元八力理論のうちの剛体・柔体・流体の三元に加えて、第4の「元」である「気体」導入した。この「気」が開祖の「心・気・体」の枠組みで最も重要な役割を果たしており、本来の三元についての言及は極めて少ない。
開祖は「気」の起源を大本教の出口が描く宇宙の創造過程に求めている。開祖にとって、 気には2つの意味がある。一つは空気 (または呼吸) であり、もう一つは空気の霊的な力が生み出すエネルギーである。宇宙創造の過程で、開祖が「ポチ(・)」と呼ぶ大虚空の一点から霧のような空気が放出された。これが「ス」の言霊を生み出した物理的な気 (空気) の起源である。それが呼吸を始め、それとともに「ウ」の言霊が誕生した。その結果、「ア」と「オ」という一対の言霊が生まれた。両者の間には、引力が生まれた。これがエネルギーとしての「気」の源である。
ここでも、開祖は本田の三元八力に頻繁に言及している。 前述のとおり、八力とは動、静、凝、解、引、弛、合、分、という8つの力であり、4組の対立する力で構成されている。しかし開祖は八力の個々の力については多くを語らず、全体としての対照関係のみに注目して気のエネルギーについて語っているように見受けられる。
前述したように、気 (エネルギー) は宇宙の呼吸、すなわち息を吐いたり吸い込んだりすることで生まれた。したがって、合気道では呼吸が非常に重要である。開祖によると、「修法」を行うことによって気を生み出すことができる。すなわち、正座の姿勢で深呼吸をし、宇宙の呼吸を感じ、宇宙の息全体を集めて吸い込み、そして息を吐きだす。この深呼吸を何度か繰り返すことで、宇宙のエネルギーを吸収することができる。
そして、自分の呼吸が宇宙の呼吸と同化する段階に到達する。自分の気 (エネルギー) は宇宙で広がり、宇宙の気 (エネルギー)と結合する。最終的には、宇宙の気 (エネルギー) を吸収することによって自分の技を思うがまま自由に効果的に行うことができるようになる。新たに獲得され一層強化されたエネルギーは呼吸に微妙な変化を起こす。このようにして、呼吸と気エネルギーとの循環的なプロセスが続く。開祖は、このプロセス全体を「気の妙用 (気エネルギーの不思議な効果)」と呼んでいる。
第3に「体」について、開祖は「気」を合気道の中心に据えているが、体 (肉体)自体については、出口が採用した本田の「三元」ですでに述べられていること以外、ほとんど語っていない。生き物にとっては、三元とは硬い物質、柔らかい物質、流れる物質の3つである。人間にとっての開祖の解釈は、それぞれ骨、筋肉、血液など体内を循環している体液を指すと思われる。
開祖は、身体の個々の物質についてほとんど言及せず、血液についてのみ、スムーズな血液循環は「カス」を取ることにより禊となると述べている。種々の関節技も、関節を痛めつけるのではなく、たまった血液の「カス」を取り除くものとしてとらえている。
開祖が重視するのは体自体ではなくむしろ体の構(かまえ)や動きであり、「人は自分の体を宇宙の働き、すなわち自然の法則と調和させなければならないと」と繰り返し述べている。構としての「三角体」や動きとして「三角法」「円転の原理」は開祖のこのような信念から生まれものといえよう。開祖は他のすべての概念同様、三角体(法)や円転の原理について様々なキーワードや例示をもって語るが、包括的な定義は行っていない。他のすべての概念同様これらはすべて「体感」すべきものとしている。したがって特に「三角体」については、吉祥丸前道主をはじめ多くの師範が様々な解釈を行っている。
三角体は開祖が「不敗の構え」というようにすべての物体にとって最も安定した形態である(自然の法則)。したがって体の様々な部位で三角面を作ることにより安定した構えを維持することができる。円転の原理とは、地球の自転・公転から吸収力と遠心力が生まれることから、同様の動きをしてエネルギーを生み出し、相手の体勢を崩すことを意味する。合気道の基本である「入り身」「転換」はこのようにして生みだされた。
「心・気・体」の合気道の実践
これまで、開祖の「武産合気」に至るまでのプロセスをできるだけ客観的に紹介しようと試みてきた。開祖は、1915年に大東流柔術の研鑽を始めて以来、岩間に移った1942年頃まで30年間近くは自身が「魄(はく)」と呼ぶ「物理的な」すなわち「体」を中心とした合気道を実践してきた。
我々の知る開祖の「武産合気」、すなわち開祖が「魂(こん)」と呼ぶ精神を重視する合気道についての考えは、開祖の全合気道生涯の後半の思想を反映している。 武産合気に関する数冊の本の基礎となった開祖の口述は、1950年から亡くなる1年前の1968年にかけて行われた。武産合気とは「不敗」「無敵」の領域に達した開祖にして初めて可能な精神的覚醒の産物といえよう。
我々は、開祖がそれまでに培われた肉体をベースにした合気道を否定するのではなく、それを前提として合気道の精神面について述べていると解釈するのが妥当であろう。事実、開祖は武産合気とは「魄を土台として魂の世界を作る」ことであると繰り返し述べている。したがって、身体の鍛錬を怠って気の鍛錬にのみ集中するのは正しくない。
開祖が合気道の肉体的側面にほとんど言及していないことは、開祖が精神や心が体を導くと固く信じていることの反映であろうと思われる。実際、開祖はよく合気道には形がない、または固定された「型」はなく、技は、自分の気を十分にコントロールすることができていれば、自然に(無数に)出てくると言う。合気道のこの見方が、「武産合気」における技の本質を示している。
「武産合気」における合気道は、開祖の信仰する宗教的目的を達成するための手段であるが、以下では神道に固有な宗教的要素を取り除いて合気道自体の習得について私見を述べたい。すなわち、我々は開祖の合気道における「心」「気」「体」の各々を日常の合気道の稽古でどのように習得し、発揮すべきであるかについて述べたい。
私見によれば、合気道の稽古の最初は、「体」の訓練である。「体」には身体自体と動きの両面がある。先ずは、身体、すなわち、強い骨、強くて柔軟な筋肉を作るための訓練である。強い骨と筋肉を発達させるために、むしろ合気道を始める前に、何らかのスポーツを通じてかなりの量の身体トレーニングを行っていることが望ましい。そうでない場合は、合気道とは別に自分で行うのがよい。合気道のクラスの最初に通常行われる合気道体操は、主に柔軟性を高めるように設計されており、強い筋肉を発達させるには十分ではない。
強く柔軟な肉体を作り上げ、あるいは作りつつ、滑らかな動き、特に足さばきの訓練を行う。そのためには、剣道の送り足、摺り足、継足、正面打、横面打、突き等の基本動作を素振りによって学習することは非常に有効である。さらに、開祖の「三角体(法)」「円転」の原理に従って(外・内)入身、転換、反転、転身、転回について十分習得する。
三角体の代表的なもとしては、半身の体勢でT字型となる両足の位置、正中線に従って振り上げた際の両手の位置があげられよう。T字型は構えだけでな三角法の動きについても当てはまる。また、正しい円転のために最も重要なのは、不動の中心軸を維持することと、必要な角度の円周をスムーズに描くことである。これらを十分に習得した上で、所定のシラバスに従って体さばきと基本的な技あるいは「型」を学ぶ。さらに変化技、返し技、呼吸投げ、自由技、多人数掛け、武器取へと進む。
「体」の次に、合気道の「心(こころ」」についての正しい理解が必要である。すでに述べたように、合気道を学ぶ我々の心は愛でなければならない。この愛は、すべての宗教が共有する至高の神の人間に対する愛に由来する。
私の理解では、それは (神から人間への) 垂直的または一方向的な愛であり、(神と人間の間の)水平的または双方向の愛ではない。この種の愛は、「慈愛」と呼ぶ方が適切かもしれない。開祖は「愛」と同時に「愛護」という言葉をよく使用したが、いずれの場合も明らかに垂直的な愛を意味していると思われる。
したがって、実践的な武道としての合気道では、自身を相手 (敵または攻撃者)に対して水平ではなく垂直関係に置く必要がある。自身は敵に対して慈悲深くなければならない。敵を傷付けたり、ましてや殺してはいけない。むしろ、敵を、神がすべての人に与えた善に導く(善導する)ことが期待されている。
ここで重要なことは、神は全能であるため慈悲深くあることができる、ということである。したがって、宗教を離れて武道としての合気道で慈悲深くあるための前提条件は、全能(不敗)であるか、少なくとも敵に対する身体的および技術的優位性を持つことである。開祖は、「魂」の合気道を提唱する前にこの段階に到達していた。その様な高いレベルの習熟度に達成していない我々は、開祖のいう「魄」の合気道の習熟が不可欠である。
前述したように、一元の大神の愛の心を自分の心とするためには「自我」や「自己欲望」などの邪念を祓わなくてはならない。合気道においては相手に「勝ちたい」という願望もまた邪念である。そのような邪心を祓い心身を清めるためには、神道や仏教では禊や祓いの宗教的行為を行う。開祖が日常的にこれらを行っていたことについはすでに述べた。
合気道では「勝ち負け」という邪念をあらかじめ取り除くために、「取り」と「受け」のそれぞれの役割が決められている「約束稽古」により日々の稽古がおこなわれている。しかしそれでも、「稽古相手と技の優劣を競いあいたい」「自分の優位性を誇示したい」という欲望・邪念が生じる。これを防ぐために、禊や祓い等を模した宗教色の強い所作・行為は国際化した合気道の現状にかんがみ不適切であろう。
より適切な方法として、稽古開始時に正面の開祖(の写真)に一礼をする際に、開祖への感謝の心に加えて以下のような心を込めておこなうことが適切であると思われる。すなわち、約束稽古の相手は競争相手ではなく、技を学ぶのを助けるための自己のパートナーである。したがって、感謝を込めて優しい心で稽古すること、相手を傷つけることのないよう最大限の注意を払うという心である。
最後に、合気道の重要な要素である「気」について、私は以下のように考える。すなわち、「心」は完全に精神的な概念であるが、「気」は精神的な要素と身体的つまり物理的な要素の両方を持つ概念である。精神的な要素は「気持ち」、物理的な要素は「エネルギー」と理解することができる。精神的な要素にはさらに感情的側面と知的側面があり、感情的側面は「心情」、知的側面は「意思」を意味する。したがって、「気」は文脈に応じて「心情」「意思」「エネルギー」と表現することができる。
私は上記の「気」の諸側面を「心」と「体」との関連において以下のように理解している。「心」の愛から発する優しい「心情」に基づく「意思」すなわち精神的な「気」は、自身の「体」を通じて相手に働きかけることにより、単に物理的な力により得られるより大きな「エネルギー」すなわち物理的な「気」を発揮することができる。このように、「気」には精神面と物理面の二面性があり、両者には精神面が原因、物理面が結果という因果関係がある。煩雑さを避けるため、以下では精神的な「気」を単に「気」と呼び、物理的な「気」を「エネルギー」と呼ぶこととする。
稽古時に気を生み出すためには、最初に行う合気体操の後に前述の「修法」を正座(背筋を伸ばして座る)の姿勢で行うのが良いと思われる。すなわち、指を結び、目をつぶる。深呼吸をし、宇宙の呼吸を感じ、宇宙の息全体を集めて吸い込み、そして息を吐く。このようにして、宇宙の呼吸に合わせて呼吸を適応させることができる。この深呼吸を何度か繰り返すことで、宇宙のエネルギーを吸収することができる。
次に、約束稽古で稽古相手と対峙した際に、気の使い方には以下の4つの段階があるように思われる。すなわち「気構え」、「気結び」、「気の流れ」、そして「気納め」の4段階である。
気構えの段階では、三角法に従って半身で相手と対峙し、すでに「修法」で獲得した「気」について再確認する。すなわち、宇宙や天との一体感を感じ、それによって宇宙のエネルギーを吸収し、地球の重力から自分を解放する。そうすることにより、思い通りに自由に動く準備ができる、すなわち「心身統一」が達成される。
次に、相手と対峙すると相手の攻撃に備えて気持ちが攻撃的になったり、防御的になったりしがちであるが、ここでは「気結び」、すなわち相手の気との「和合」が必要である。この気の和合の段階では、単に自分の気を相手の気に合わせるのではない。自分があたかも宇宙の中心に立って、相手の気を自分の気に吸収するように感じなければならない。ここで相手の手元(特に武器取りの場合)や目を見ると、相手に自分の気を吸収されてしまうため避けなければならない。相手の気を吸収することにより、相手が攻撃を開始した際、相手の気、したがって体も簡単に制御することができる。
そして「気の流れ」の段階に移る。開祖によると、相手の気と体を円を描くように丸く導かなければならない。開祖の円は立体的な概念である。したがって、開祖はしばしば、丸い心を角のない球に例える。物理的には、円運動には水平円、垂直円、および様々な角度の斜めの円が含まれる。この段階でのすべての「入身」の動きは縦の円で始まり、「転換」の動きは横の円から始まるように思われる。この段階の最後では、相手は完全にバランスを失い、わずかな力で技 (投げ) を実行することができる。
技を実行することでエネルギーを放出し、活動的な気を休ませる準備をする。これが「気納め」の段階である。深呼吸をして気を「丹田 (腹部の一点)」に集中させる。このようにして、放出されたエネルギーを収集しそれを丹田に蓄えることができる。
開祖の「気」に関する考えは、非常に複雑であり難解であるが、心が体を導き、気のエネルギーは単に想像の産物ではなく現実のものである、という開祖の基本的な命題については疑う余地がない。したがって、技の効果を高めるためには気をいかに取得するか、いかに使用するかを学ぶことが不可欠である。「気」は「心」から派生するため、愛の心、優しい心で合気道を稽古することで気を正しく発揮し、稽古相手を効果的に制することができる。以上が合気道の稽古における「気」の使用についての私の解釈である。
最後に、心・気・体から生まれる技について。愛の心から発する技の目的は、相手との「和合」であり、相手に対する優越性を誇示することではない。したがって、技の効果は、相手に与える衝撃(投げ技の場合)や苦痛(固め技の場合)の大きさで測ってはならない。心気体を正しく活用すれば、相手に全く衝撃や苦痛を与えることなく技を完了することができる。丸く心地よく受け身の取れる投げ技、カスを取ることによりスムーズな血行が感じられる関節技、これこそが最も理想的であり、同時に効果的な技である。我々はこのような技の習得に向けて日々の稽古を行うべきであると考える。
以上
参照文献およびその概要
1930年代に、開祖は弟子たちの稽古ノートに手を加え、『武道練習』(1933年)および『武道』(1938年)を合気道の教材として編纂した。そのため、この2冊は主に開祖の弟子たちの間でのみ流通し、市販されることはなかった。したがって、本文の作成のために参照することはできなかった。また、それらは主に合気道の技術的側面について書かれており、精神的な側面についてはあまり触れられていないと伝えられている。合気道の精神的な側面についての開祖の考えが広く知られるようになったのは、第二次世界大戦後(1945年以降)のことである。
戦後、開祖自身は執筆することはなかったが、次の2冊の制作/出版には深く関与した。これらでは合気道についての開祖の精神的および宗教的な見解が豊富に提示されており、技術的な側面にはほとんど言及されていない。
『武産合気: 植芝盛平先生口伝』 高橋秀夫 (1976)
『合気神髄: 合気道開祖・植芝盛平語録』 植芝吉祥丸監修 (1990年)
『合気神髄』は1990年に刊行されたが、内容は合気会の月刊誌『合気道』に1950年から1954年まで、更に月刊の『合気道新聞 』に1959年から1968年までに寄稿された開祖の語録を転載したものである。1954年から1959年までの空白期間の一部が『武産合気』によってカバーされているのは興味深い。
いずれにせよ、『合気神髄』では、開祖の語録は、合気会によって編集され、開祖の子息であり二代目道主である吉祥丸先生によって監修された。この著作は、開祖が「合気道とは何か」について述べられた7つの章と、開祖が詠まれた110の道歌 (合気道の和歌) を集めた1つの章で構成されている。
開祖によると、合気道とは、魂の学び (第1章)、愛気 (第2章)、武産の現われ(第3章)、気の妙用 (第4章)、宇宙につながる (第5章)、禊 (第6章)、および人神合一の修行 (第7章)である。第8章では、合気道についての開祖の考えを和歌の形 (五七五七七)で紹介している。私には、開祖の道歌は (めったに書かれなかった) 散文よりも開祖の考えを伝えるのに効果的であると思われる。なぜなら開祖は理性と論理よりも直感とインスピレーションの人と思われるからである。
『武産合気』の内容は、戦後新たに設立された神道の一派である白光真宏会の月刊誌「白光」に32回にわたり連載された開祖の口伝である。『白光』の創刊編集者である高橋秀夫が1958年から1961年にかけて開祖に面会し開祖の口述を筆記したものを、主に会員向けに『白光』に連載したものである。その後1976年に高橋は編者としてそれらの連載記事を一冊の著書『武産合気』としてまとめ、一般向けに出版した。
本書は、開祖の考えや見解が、高橋による説明や解釈はほとんどなく、引用という形で開祖自身の言葉で提示されている点が貴重である。しかし、これらの32の口述は、開祖の内面から自然発生的に生じた宗教的思考の記録であり、開祖自身はそれらの口述記録を編集して体系的に提示しようとはしなかったと思われる。その結果、32の講話は非常に難解であり、またその中には多くの重複があるように思われる。
上記の2冊以外にも、開祖の考えを理解するのに役立つ著作がいくつかある。 以下の3冊は、開祖の考えについての著者の解釈が論理的に提示されている。したがって、前の2冊の著作よりもはるかに理解しやすい。
『合気道』 植芝盛平監修、植芝吉祥丸著 (1957)
『古事記と植芝盛平:合気道の神道世界』清水豊(2006)
『植芝盛平の武産合気』清水豊 (2006)
『合気道』は1957年に出版された合気会による最初の出版物である。著者は吉祥丸先生であり、合気道の紹介を目的としている。当時は開祖が道主であり、吉祥丸先生は本部道場の道場長であった。同書は、合気道の精神、合気道の歴史、合気道の基本技法、開祖の伝記、開祖の道歌、開祖を囲む座談会記録等から成る。特に重要なのは、吉祥丸先生が解釈する合気道の精神と、数人の新聞記者による開祖のインタビューである。吉祥丸先生も同席したこの座談会で、開祖は合気道とは何かについての考えを語り、吉祥丸先生が補足する形となっている。
『植芝盛平の武産合気』と『古事記と植芝盛平』の著者である清水豊は、合気道を含むさまざまな日本と中国の武術の研究者・指導者であり、また神道の研究者でもある。上記2冊のいずれにおいても、情報源として『武産合気』と『合気神髄』に大きく依存している。清水にはこれら2冊以外にも開祖の合気道の精神面についていくつかの著作があるが、開祖の合気道を『古事記』等の古い歴史書に記録されている古神道の文脈にしたがって解釈している。
最後に、開祖の使用する種々の難解な用語や表現の解釈については、佐々木合気道研究所の『研究論集』が非常に有用である。同研究所の所長であり、論集の発行者でもある佐々木貴先生は開祖の晩年に直接指導を受けた現存する数少ない指導者の一人である。2006年より20年間に1000回以上にもわたりインターネット上で論集の刊行を続けられたご努力に敬意を表したい。